現代社会において最も広く信奉されている二大イデオロギー――民主主義と共産主義。
表向きには、これらは対立し、正反対の立場を取る思想であるとされている。しかし、その根底に流れる潮流を読み解けば、実はこの二つは同一の歴史的文脈から生まれた“共犯関係”にあることが見えてくる。
奴隷から「大衆」へ: 労働需要が生み出した幻想の解放
産業革命。それは技術の爆発と同時に、人間の価値を「労働力」として再定義した時代の始まりだった。大量の機械と工場が出現し、それに応じた莫大な労働力が必要とされた。
このとき、歴史の中で長く被支配階級として据え置かれていた平民階層が、突如として“解放”されることになる。表面的には身分制度の崩壊、自由と平等の確立という文脈で語られるが、実のところ、それは封建的な拘束を解くためではなく、より柔軟かつ効率的に彼らを「使役」するための構造変化にすぎなかった。
封建制社会においては、人間はその生まれによって定められた役割を担い、身分制の中で静的な秩序を保っていた。しかし産業資本は、この静的構造を邪魔と見なし、より機動力のある“労働する個人”を必要とした。
民主主義と共産主義: 装いを変えた大衆支配装置
ここで登場するのが、民主主義と共産主義という新しい「思想装置」である。
民主主義は、「個人の自由と権利」という美名のもとに、大衆を自発的に体制の維持に参加させる仕組みを構築した。「一人一票」「国民の代表」「自由選挙」などの制度は、支配構造の実権を大衆が握っているかのような錯覚を与える。だが実際には、その選択肢自体があらかじめ与えられた範囲内でしか存在しない。
共産主義は、「平等」「労働者の権力」といった旗印を掲げながらも、最終的には国家という巨大な装置がすべての個を吸収し、管理し、統制することで、より徹底した労働の動員体制を実現した。個人は解放されたのではなく、より抽象的で全体的な「集団意思」の名のもとに従属させられた。
これらは方向性が異なるように見えて、実は同じ目的を持っていた――従来の身分制社会にはなかった「大衆」という全く新しい階層を、幻想の自由と理想の平等で包み込み、支配と動員を可能にするための装置としての機能である。
現代社会の呪縛: 幻想の中で生きる人々
現代社会は、いまだにこの二つの思想の延長線上にある。多くの人は「自由な社会」「開かれた社会」「平等な社会」に生きていると信じている。しかし実態はどうか?
── 自由とは、与えられた範囲での選択肢を選ぶ権利にすぎない。
── 平等とは、画一化された条件の下で均質に搾取される仕組みにすぎない。
── 民意とは、あらかじめ用意された意見を選ばされるプロセスにすぎない。
人々は「選んでいる」つもりで、実際には「動員されている」だけだ。そしてその動員が、民主主義や共産主義といった近代思想によって正当化され、不可視化されてきた。
未来は幻想の彼方にあるか
この構造を見抜き、その呪縛から自らの思考を解き放つことなしに、本当の意味での自由や解放などあり得ない。
現代の政治思想は、すでにその革新性を失い、体制を支えるための宗教的ドグマと化している。
今を生きる我々も実は、自由なのではなく、「大衆支配」という幻想構造の下、「自由であると思わされているだけ」なのかもしれない。
英語版 → English version