議会制民主主義という妖怪が、現代社会を徘徊している。
あたかも専制の時代が終わったかのような顔をして、自由と平等をうたいながら。
しかし、それは、旧来の支配構造をより巧妙に包み隠し、新たな形式で人民を支配する――極めて洗練された装置だ。
幻想としての「自由」
現代人は、自分が「自由」であると信じて疑わない。生きる自由、発言の自由、選択の自由、行動の自由……多くの言葉が、人々に“自由”の実在を印象づける。
しかし、考えてみてほしい。人々が行使している“自由”とは、せいぜい昼飯に何を食べるか、どのSNSにその写真をアップするか程度のものではないのか?
ピーター・ティールは2019年のWriston Lectureで、近年の米国が「友人が昼に食べたものに『いいね』するようなアプリに夢中だ」と皮肉り、そうしたアプリは世界を変える本物のイノベーションの代替にはならないと述べた。彼の言う通り、人々はSNSの虜になり、まるで本物の自由を手にしたかのように錯覚しているようだ。しかし、彼らが手にしている自由とは所詮、自分の昼飯の写真をツイートして世界中にばら撒く程度のものだ。
結局のところ、思想も、労働も、時間も、空間すらも、制度と市場原理に囲い込まれて、個人に保証されている自由はと言えば、所詮は「欲求と排泄」にまつわる最も原始的なものくらいなのだ。
主役を演じる「大衆」という名の労働装置
民主主義は大衆に「主権者」という役柄を与えた。しかしその実、大衆とは支配者によって機能的に再構成された“労働ユニット”にすぎない。
政治家が選挙によって「選ばれた」という形式を取ることで、人々はこの社会の中心に自分たちがいると思い込まされる。だがその実、何も変わらず、人々は相も変わらず、支配者のためにせっせと働き、富を吸い上げられている。
入社式のような「初登院」の茶番劇
参議院議員選挙で当選した新人議員たちが初登院した。その様子が、テレビやネットを通じて大々的に報道された。あなたは見ただろうか?
満面の笑み、スーツに身を包み、記念撮影に臨むその姿は、まるで新入社員の入社式か、新入生の入学式のようである。
だが我々は知っておくべきだ。
「一年生議員」とは、あくまで旧支配層に“参入を許された”新人貴族の卵であり、大衆の代表でも、変革者でもないということを。
彼らは当選の瞬間に、叫んでいた正義を手放し、「当選した」という事実だけで会心の笑みを浮かべ、図らずも自分の本当の目的を露呈する。選挙中の勇ましい公約は、カメラのフラッシュとともに色褪せ、いつの間にか消えていく。
民主主義という構造の本性
このような光景からも明らかではないか?
議会制民主主義とは、大衆に「あなたは主権者だ」と錯覚させ、その“主権者”が選んだ政治家たちが、旧来の支配層のご機嫌をうかがい、自己の保身と栄達のために活動するという逆説的支配構造なのだ。
新たに選ばれた議員たちは、初登院の日から“既得権益層の一年生”として、特権階級の階段を上り始めたにすぎない。
誰のための政治か?
この社会は、もはや形骸化した制度の上に成り立っている。
議会とは、もはや民意を体現する場ではない。
政治とは、もはや正義を追求する活動ではない。
民主主義とは、もはや自由を守るための思想ではない。
それは、支配を隠蔽し、従属を納得させるための舞台装置なのだ。
この幻想から目を覚ませ。
自分たちが自由であると“信じ込まされている”ことこそが、最も深い支配であることを、そろそろ知っておいた方が身のためだ。
現代社会では、今日も飽きもせず、議会制民主主義という妖怪が徘徊しているのだから。
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