夥しい数の鶏が、今日も殺されている。
その肉は切り分けられ、パック詰めされ、飾りつけされた棚の上に陳列される。
そこにあるのは、ただの鶏肉ではない。
それは、大衆の欲望が肥大化した結果、生み出された「生の断片」であり、大量消費社会の供物である。
かつて、家禽は飼われていた。
いま、鶏は「設計」されている。
筋肉量、成長速度、餌の吸収効率。
ブロイラーはただひたすらに膨張する肉塊となるべく飼育され、
その骨は自らの体重に耐えかねて軋み、
その思考力は失われ、
ただのタンパク質製造装置として最適化された、
それが現代の鶏だ。
だがこれは、果たして「鶏」だけの物語なのか?
違う。
これは、現代の大衆の物語だ。
膨大な数の胃袋を満たすために、鶏を大量飼育方式で大量生産していたはずが、
自らが、大衆消費社会という大量飼育方式の中で生かされ、
いつのまにか大衆自身がブロイラーになり果てたのだ。
テレビを見て笑い、SNSに飯の写真を上げ、
安いビールを飲みながら、「今日も美味い!」と悦に入る者たち。
「自由だ」「選択肢がある」と信じながら、
コンビニのレジで規格化された商品を選び、
スマホの画面の向こうで、規格化された思想にうなずき、
SNSで浮かれ、煽られ、
流行りの島に旅立ち、旅先でまた同じような料理を食い、
「満たされた」と勘違いして、帰ってくる。
「自由だ、自由だ」とはしゃいでいるが、彼らが手にしている自由は、
その実、自分の飯の写真を、世界中にばら撒く程度のものと大差はない。
それは、「生の奴隷制」の証明書だ。
大衆は「主役」だと持ち上げられてはいるが、実は「主役」などではない。
彼らは、欲望を演出されたブロイラーだ。
餌を与えられ、太らされ、仕向けられ、
支配層が用意した回し車の中でせっせと走っているだけだ。
大衆消費社会の構造は、螺旋状の迷宮だ。
追い求めるほどに、その中心から遠ざかり、
追い求めていたはずが、元いた場所に戻される。
まるで、欲望という脂肪に埋もれた迷宮。
そう、気づいてしまえば簡単な話だ。
鶏はブロイラーにされ、大衆はブロイラーになった。
今日も、大衆は己の快楽を口に運び、
骨まで肥えた自我に酔い痴れ、
南の島へ、世界の果てへと、すさまじい勢いで、
その空虚な自我を拡張し続ける。
良心は人気商品のブランドで代替し、
罪悪感はエコ包装紙で覆い、
道徳はSNSの「いいね!」に変換される。
そして彼らは笑う。
その笑顔の向こうに、
巨大な屠殺場の扉が音もなく開くことに、気づくこともなく。
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