快楽の牢獄

 世は快楽で溢れている。

溢れているどころか、快楽はこの時代の空気だ。吸わずには生きられない。
そしてその空気は、透明なまま、人々の首根っこを掴み、呼吸を支配し、思考を眠らせる。

かつての権力は、身分で人を縛り、武力で膝を折らせ、信仰で魂を縫い付け、思想で脳を封印した。
しかし現代は違う。
今の支配は、甘く、滑らかで、抗いがたい。
それは――快楽だ。

快楽は鉄鎖よりも頑丈で、牢獄よりも広大だ。
なぜなら、人間はそれを進んで首にかけ、自ら囚われることを選ぶからだ。
命令も鞭も要らない。
ただ、甘い誘惑を放つ玩具をちらつかせればよい。

テレビをつけろ。そこから洪水のように溢れ出す。
酒、美食、旅行、海、遊園地、ゲーム、映画、音楽、流行、美容、スポーツ、セックス。
あらゆる欲望のディスプレイが目の前に並び、観客は舞台に上がり、狂喜乱舞する。
気づけば、足元は底無し沼だ。
抜け出すことはできない。抜け出そうとも思わない。

人は考えることをやめ、疑うことをやめ、
メディアやSNSから垂れ流される映像と音に身を溶かす。
その間に、支配の網の目は神経の奥へ、血管の隅々へと忍び込む。
しかも、それが網だと気づかせることなく。
ああ、なんという見事な支配か――囚人に、自分が囚人であることすら悟らせないとは!

「楽しめ!楽しめ!」
それが現代のスローガンだ。
愚か者は笑い、酔い、食らい、消費し続ける。
友情も愛情も、快楽と金銭で量られる秤の上に置かれた。
苦楽を共に、などという古臭い言葉は死語になった。
今や「楽を共にする」だけだ。
「苦しみを分かち合おう」などと言えば、すぐさま精神病院送りだ。

こうして人と人との絆も、金額と娯楽の度数でしか測られぬ陳腐なものとなった。
仲間は、共に笑い、遊び、消費する者だけだ。
血と汗を共に流す兄弟のような連帯は、古い写真の中でしか見つからない。

だが――快楽の底無し沼の泥水は永遠には満ちていない。
崩壊の足音は、もう聞こえている。
泥水は、ゆっくりと干上がりつつある。
いずれ、干上がった沼の中で、群衆は初めて、首にかけた首輪の重さを知ることになるだろう。

――その時、まだ笑っていられるだろうか?
それとも、もう笑い方すら忘れてしまっているだろうか?



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